2017年11月9日木曜日

#今、映像理論はいらない - Don't need video theory now.

#今、映像理論はいらない - Don't need video theory now.

映像のタイムライン
1)発生は
19世紀末のパラダイム
映画の発生は、観客がスクリーンへの映写(ハリウッドスタイル)の発生は、1895年のリュミエール兄弟社のシネマトグラフから、といわれる。
パリのグランカフェでは、「列車の到着」「工場の出口」の映像が公開された。

2)映像理論としての言語の登場:モンタージュとフォトジニー
(2-1)モンタージュ
 「異質なイメージを衝突させて、新たな効果を観客の脳裏に生む(理論の押しつけ)」編集のプロセスだが、撮録時に計算している。
1925年「ストライキ」「戦艦ポチョムキン」セルゲイ・エイゼンシュテイン
(註)絵画の世界では、当時、シールレアリズム、とよく相似される。

そして、ワイダ監督の「灰とダイヤモンド」も、その分類だろう、でなければ、当時のポーランド共産党が、この映画の公開が許すはずもなかっただろう。ここでのモンタージュは、2通りの解釈があるだろう。

(2-2)フォトジニー
 「視覚的リズム」 映画固有の映像表現をポイントとして、そこから、観客が、汲み取るものを大切とした。
モンタージュのように、制作者の意図の押し付けを批判し、観客の側にたった映像論を構成しようとするものであった。
ゴダール「勝手にしやがれ」「気違いピエロ」・・・・


3)クラウド時代の映像は? Now, the video method is free.
映像の氾濫する現在、理論での解釈は難しい、むしろ、映像の約束事はない、過去のものとなった。
つまりは「何でもあり」の姿勢で制作を展開されたい。

たた、忘れてはならない事は、映画初期の撮影技法、編集技法(モンタージュ等々)は、映像の芸術性を高めた事は確かな事である。

(参考)ゴダール:Goodbye to Language  
(C) 2014 Alain Sarde - Wild Bunch


2017年11月8日水曜日

テキスト:「美術を学ぶ人へ」(佐藤忠良)への解釈(異論)

美術を学ぶ人へ (美術の教科書)    佐藤忠良 
美術を学ぶ前に、私が日ごろ思っていることを、みなさんにお話します。 というのは、みなさんは、 自分のすることの意味------なぜ美術を学ぶのかという意味を、 きっと知りたがっているだろうと思うからです。 私が考えてほしいというのは、科学と芸術のちがいと、その関係についてです。 みなさんは、すでにいろいろなことを知っているでしょうし、 またこれからも学ぶでしょう。 それらの知識は、おおむね科学と呼ばれるものです。 科学というのは、だれもがそうだと認められるものです。 科学は、理科や数学のように自然科学と呼ばれるものだけではありません。 歴史や地理のように社会科学と呼ばれるものもあります。 これらの科学をもとに発達した科学技術が、 私たちの日常生活の環境を変えていきます。 ただ、私たちの生活は、事実を知るだけでは成り立ちません。 好きだとかきらいだとか、美しいとかみにくいとか、 ものに対して感ずる心があります。 これは、だれもが同じに感ずるものではありません。 しかし、こういった感ずる心は、人間が生きていくのにとても大切なものです。 だれもが認める知識と同じに、どうしても必要なものです。 詩や音楽や美術や演劇------芸術は、 こうした心が生みだしたものだと言えましょう。 この芸術というものは、科学技術とちがって、 環境を変えることはできないものです。 しかし、その環境に対する心を変えることはできるのです。 詩や絵に感動した心は、環境にふりまわされるのではなく、 自主的に環境に対面できるようになるのです。 ものを変えることのできないものなど、 役に立たないむだなものだと思っている人もいるでしょう。 ところが、この直接役に立たないものが、心のビタミンのようなもので、 しらずしらずのうちに、私たちの心のなかで蓄積されて、 感ずる心を育てるのです。 人間が生きるためには、知ることが大切です。 同じように、感ずることが大事です。 私は、みなさんの一人一人に、ほんとうの喜び、悲しみ、怒りが どんなものかがわかる人間になってもらいたいのです。 美術をしんけんに学んでください。 しんけんに学ばないと、感ずる心は育たないのです。

(註)浅野千秋の美術教育の解釈「美術を学ぶ人へ (美術の教科書) 」について、反面、異論の多いのも確かだろう、それは、表象には、解答がないのだから、、それでも、小中学の美術には、成績がある、人(教師)がランクを付ける訳だ、そして、この書籍は、その教育の中で使われた。>>科学と芸術の違い:  はない。そして、学際という言葉も存在する。>>科学技術: 技術と芸術は同じものである。また、科学によって、その時代の解き明かされたパラダイムが、技術と芸術で展開されて行く。すべてのサイクルは、複合的な同時性の中で進行している。いつの時代もそうであろう。それは、「形見とて 何かのこさむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみぢ葉」良寛辞世の句解釈:残そうとしても何かが残るという世界の仕組みではないし、残るべきものとしてあるものは、人の手を離れてすでに残ってある。 
>>しんけんに学ばないと、感ずる心は育たないのです。それは、まったく、ないだろう。



2017年11月6日月曜日

ヴァルター・ベンヤミン著作集 II「複製技術時代の芸術」解釈 - Interpretation of Benjamin's book II

ヴァルター・ベンヤミン著作集 II「複製技術時代の芸術」解釈
Interpretation of Benjamin's book II "The art of the era of replication technology"
With the development of replication technology, the aura which was in the art work has been rapidly lost.
The historical testimony of the work, authority, the reality of the original art work, it leads to Aura…
ベンヤミンの「複製技術時代の芸術は、過去の遺物とも、いわれることもある。
20世紀初期のメディア論の代表作とされているベンヤミンの論文であり、
アウラという用語が初めて使用されている。
このアウラとは「どんなに近距離にあっても近づくことのできない現象」 という。
それは、作品が持つ歴史的証言力、権威、オリジナルの芸術作品が持つアクチュアリティー(現実性)、それがアウラにもつながる。

この論文でされている主張は、「複製技術が発達することになった状況で、芸術作品に宿っていたアウラは急速に失われている」という点ある。
複製技術の発達により、礼拝的価値が相対的に社会の中で低下し、一方で展示的価値が増大しているという状況をベンヤミンは分析した。
 ベンヤミンはここで、二つの芸術的な価値を基準にして論を展開している。一つは、礼拝的価値であり、もう一方は展示的価値である。
その展示的価値については、デュシャンや、ウォーホルのコンテンポラリーアーツ(現代美術)を考えれば解りやすいかもしれない。

この論文のオリジナルの意義と、その複製との関係は、21世紀になってのデジタル化社会に於いても、多様性を秘めている。
ただ、それらが、非常にシンプルだった時代の論文だが、現状のデジタルコンテンツ論にも通じる問題意識を考えると、その基本と、その受け手の認識による、パラダイムシフトは重要だろう。

少なくとも、「複製技術時代の芸術」という論文の視点は、より、批判的な視点も含めて、多様な論を展開する要因となり得た。

「暴力批判論」 ヴァルター・ベンヤミン著作集 I 解釈

「暴力批判論」 ヴァルター・ベンヤミン著作集 I 解釈
Whether violence is ethical in principle as a rule, whether it is a means for justice's law or not?
この論文の目的は、
「たとえ正義の法のための手段にもせよ、一般に暴力が原理として倫理的であるか?」ということだろう。
それには、ベンヤミンは否定的だ。

正しい法のためなら、暴力という手段は正当化される。(註*1)
だが、暴力はこの法、それ自体を作ったり修正してしまう力を持っているということだ。
それは、暴力は、手段としての自らの正当性を主張することができない。
では何が目的(法)の正しさを決めるのか。
飛躍的だが、ベンヤミンは、それは神の正しさを主張する。

人間が行使する暴力は、自らを正しい手段であると強弁する神話的暴力である。
この神話的暴力を廃棄し、神の正しさに還れと、ベンヤミンは論ずる。
(註*2)
この暴力批判論の問題として、思想の飛躍が挙げられる。
近代哲学では、何が「神の正しさ」であるかは解釈は難解であろう。

(註*1)勝てば官軍、負ければ賊軍
(註*2)暴力批判論の課題は、暴力と法、及び正義との関係を描くこと。
ストライキを暴力とする国家、死刑から見る法の暴力の矛盾、警察の法維持的な暴力と、法的目的を自ら設定する権限、逮捕権などについて説明がある。
民主制における警察は絶対君主制よりも有害な精神を持つとすら言えること。
抗争でどんなに非暴力的な法的協定が行われようと、結局、暴力の可能性に繋がること。

2017年11月5日日曜日

道(La Strada)-フェデリコ・フェリーニ監督:解釈

道(La Strada)フェデリコ・フェリーニ監督(Federico Fellini, 1920 - 1993)

解釈:身売り、大道芸人の辛い生活、芸人同士の特異な人間関係、窃盗・殺人、離別、そして死、ある意味、その時代の底辺のような世界のそれらの事象が、フェリーニのコンテだった、だろうか?
むしろ、こうした悲惨なエピソードの数々が陰惨なものにならないような、陽気な語り口や明るい楽しいトーンを展開している。
フェリーニは、その陽気なトーンを、ジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)に託していた。


プロット:
旅芸人ザンパノに、わずか金額で売り飛ばされた娘のジェルソミーナは、ザンパノの手伝いで亡くなった女の妹だった。




少し、発達障害があるのかも知れないが、ジェルソミーナは、素直で無類に明るい。
町や村への巡業を続ける二人だが、そして、素行の良くないザンパノに嫌気がさしたジェルソミーナは彼の元を離れていた。
祭礼の夜、綱渡り芸人イル・マットの華麗な演技に魅了されるジェルソミーナ。しかし、イル・マットはザンパノと因縁を持つ男だった……。
ザンパノはナイフを持って追いかける、、その行いで逮捕され、イル・マットもサーカス団から追放された。
そして、ジェルソミーナは釈放されたザンパノを迎え、2人だけで大道芸をする日々をすごした。しかし後日、ザンパノは故障した自動車を直す綱渡り芸人を見かけ、綱渡り芸人イル・マットを殺してしまう。
なきがらのそばから離れようとしないジェルソミーナは、綱渡り芸人イル・マットの死に放心状態となった。ザンパノは、役に立たなくなったジェルソミーナを見捨て、居眠りしている彼女を置き去りにして去ってゆく。
数年の時が流れて、
見知らぬ海辺の町に立ち寄ったザンパノは、ジェルソミーナがトランペットで演奏していた耳慣れた歌を耳にした。ジェルソミーナらしき女が、しばらくその海岸を放浪していたが、誰にも看取られることなく亡くなったという。 
そのことは、ザンパノも、深い絶望的な孤独感を味わざるを得ない。

(c) Federico Fellini



2017年11月4日土曜日

監督アンジェイ・ワイダ作品理解のための政治的背景-ヤルタ会談 (Yalta Conference)(覚書メモ)

監督アンジェイ・ワイダ作品理解のための政治的背景 
ヤルタ会談 (Yalta Conference)1945年2月4日 – 1945年2月11日
概要:
第二次大戦末期の1945年二月、クリミア半島のヤルタで開催された、ルーズベルト・チャーチル・スターリンによる首脳会談。
ドイツの戦後処理、国際連合設立などについて協定した。
連合国の協調が最高点に達したのはこのときだといわれ,戦後国際秩序の形成にとって重要な意味をもったさまざまな取決めが行われた(ヤルタ協定)。 

戦後世界機構に関しては,大国の拒否権,国際連合設立会議(サンフランシスコ会議)を4月25日から開催すること,その招請国の範囲,などで3国の一致がえられた。

このヤルタ会談でドイツ降伏後〈2月又は3月を経て〉対日参戦することを米英両国に約束し,4月5日有効期限(1946年4月24日)以後の中立条約の不延長を通告してきた。
日本はソビエトの斡旋による和平工作を行ったが失敗し,ソビエトは8月8日対日参戦を行い,ここに日ソ中立条約は失効した。
それは、ポーランド等、東欧に於いても同様な事象が発生されたといわれる。

そして、このヤルタ会談によって、第二次世界大戦後の世界政治のあり方=国際連合の設置と米ソ二大陣営の対立という、ヤルタ体制ともいわれる戦後体制を作り上げた。
ここから始まる米ソを軸とした東西冷戦構造は、1989年のアメリカのブッシュ大統領(父)とソ連のゴルバチョフのマルタ会談(註*2)まで継続することとなる。

内容:
 ヤルタ会談で合意された内容は、1945年2月、ヤルタ協定として発表さらた。その主な決定事項は次の通り。
国際連合の設立:45年4月25日にサンフランシスコで国際会議を開催し憲章を決めること、安全保障理事会で大国の拒否権を認めること。(註*1)
ドイツの戦後処理問題:ドイツの無条件降伏の確認、その戦後処理では米・英・ソ・仏の4ヶ国で分割管理すること、2年以内にその戦力排除と賠償取立てを決定すること、戦争責任者を処罰すること。 → ドイツ4カ国分割占領
東欧諸国問題:ポーランドの臨時政府を民主的基盤のうえに改造し、すみややかに自由選挙を行うこと、ドイツから解放された諸国に主権と自治を回復させ、民主的な政府を樹立させること。
ソ連の対日参戦問題:ソ連はドイツの降伏後3ヶ月以内に対日参戦すること、その条件は南樺太及び千島列島のソ連帰属(→北方領土問題)、旅順租借権のソ連による回復、大連に関するソ連の優越的地位、南満州および東支鉄道経営へのソ連の参加権、外蒙の現状維持など。この第4項は、秘密条項であった。 → 日本の無条件降伏

 この協定によって、米ソ2大国による世界支配という大戦後の「ヤルタ体制」が形成されたという大きな意義をもつといわれる。

(*1)1989年 12月2~3日に地中海のマルタ島で行われた米ソ首脳会談で,第2次世界大戦後 40余年にわたった冷戦の終りを事実上告げた会談。東欧諸国の共産党政権が相次いで倒れ,会談直前にはついにベルリンの壁も崩壊するという事態のなかで開催された。アメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ書記長は,米ソ首脳として史上初めて共同記者会見にのぞみ,新しい平和の時代の到来を表明した。しかし,急速な事態の流れを両超大国がコントロールしようとしたという意味合いもある。
(*2)ソ連は、拒否権問題でアメリカに全面的に妥協した見返りとして、国際連合にウクライナとベラルーシ(当時は白ロシア)を加盟させることを要求した。この2国はソヴィエト社会主義共和国連邦に属しており主権国家としての条件は十分ではなかったが、イギリスもイギリス連邦自治領インドを加盟させるため同調し、ルーズヴェルトも妥協した。