2017年11月8日水曜日
2017年11月6日月曜日
ヴァルター・ベンヤミン著作集 II「複製技術時代の芸術」解釈 - Interpretation of Benjamin's book II
ヴァルター・ベンヤミン著作集 II「複製技術時代の芸術」解釈
Interpretation of Benjamin's book II "The art of the era of replication technology"
With the development of replication technology, the aura which was in the art work has been rapidly lost.
The historical testimony of the work, authority, the reality of the original art work, it leads to Aura…
ベンヤミンの「複製技術時代の芸術は、過去の遺物とも、いわれることもある。
20世紀初期のメディア論の代表作とされているベンヤミンの論文であり、
アウラという用語が初めて使用されている。
このアウラとは「どんなに近距離にあっても近づくことのできない現象」 という。
それは、作品が持つ歴史的証言力、権威、オリジナルの芸術作品が持つアクチュアリティー(現実性)、それがアウラにもつながる。
この論文でされている主張は、「複製技術が発達することになった状況で、芸術作品に宿っていたアウラは急速に失われている」という点ある。
複製技術の発達により、礼拝的価値が相対的に社会の中で低下し、一方で展示的価値が増大しているという状況をベンヤミンは分析した。
ベンヤミンはここで、二つの芸術的な価値を基準にして論を展開している。一つは、礼拝的価値であり、もう一方は展示的価値である。
その展示的価値については、デュシャンや、ウォーホルのコンテンポラリーアーツ(現代美術)を考えれば解りやすいかもしれない。
この論文のオリジナルの意義と、その複製との関係は、21世紀になってのデジタル化社会に於いても、多様性を秘めている。
ただ、それらが、非常にシンプルだった時代の論文だが、現状のデジタルコンテンツ論にも通じる問題意識を考えると、その基本と、その受け手の認識による、パラダイムシフトは重要だろう。
少なくとも、「複製技術時代の芸術」という論文の視点は、より、批判的な視点も含めて、多様な論を展開する要因となり得た。
「暴力批判論」 ヴァルター・ベンヤミン著作集 I 解釈
「暴力批判論」 ヴァルター・ベンヤミン著作集 I 解釈
Whether violence is ethical in principle as a rule, whether it is a means for justice's law or not?
この論文の目的は、
「たとえ正義の法のための手段にもせよ、一般に暴力が原理として倫理的であるか?」ということだろう。
それには、ベンヤミンは否定的だ。
正しい法のためなら、暴力という手段は正当化される。(註*1)
だが、暴力はこの法、それ自体を作ったり修正してしまう力を持っているということだ。
それは、暴力は、手段としての自らの正当性を主張することができない。
では何が目的(法)の正しさを決めるのか。
飛躍的だが、ベンヤミンは、それは神の正しさを主張する。
人間が行使する暴力は、自らを正しい手段であると強弁する神話的暴力である。
この神話的暴力を廃棄し、神の正しさに還れと、ベンヤミンは論ずる。
(註*2)
この暴力批判論の問題として、思想の飛躍が挙げられる。
近代哲学では、何が「神の正しさ」であるかは解釈は難解であろう。
(註*1)勝てば官軍、負ければ賊軍
(註*2)暴力批判論の課題は、暴力と法、及び正義との関係を描くこと。
ストライキを暴力とする国家、死刑から見る法の暴力の矛盾、警察の法維持的な暴力と、法的目的を自ら設定する権限、逮捕権などについて説明がある。
民主制における警察は絶対君主制よりも有害な精神を持つとすら言えること。
抗争でどんなに非暴力的な法的協定が行われようと、結局、暴力の可能性に繋がること。
2017年11月5日日曜日
道(La Strada)-フェデリコ・フェリーニ監督:解釈
道(La Strada)フェデリコ・フェリーニ監督(Federico Fellini, 1920 - 1993)
解釈:身売り、大道芸人の辛い生活、芸人同士の特異な人間関係、窃盗・殺人、離別、そして死、ある意味、その時代の底辺のような世界のそれらの事象が、フェリーニのコンテだった、だろうか?
むしろ、こうした悲惨なエピソードの数々が陰惨なものにならないような、陽気な語り口や明るい楽しいトーンを展開している。
フェリーニは、その陽気なトーンを、ジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)に託していた。

プロット:
旅芸人ザンパノに、わずか金額で売り飛ばされた娘のジェルソミーナは、ザンパノの手伝いで亡くなった女の妹だった。

少し、発達障害があるのかも知れないが、ジェルソミーナは、素直で無類に明るい。
町や村への巡業を続ける二人だが、そして、素行の良くないザンパノに嫌気がさしたジェルソミーナは彼の元を離れていた。
祭礼の夜、綱渡り芸人イル・マットの華麗な演技に魅了されるジェルソミーナ。しかし、イル・マットはザンパノと因縁を持つ男だった……。
ザンパノはナイフを持って追いかける、、その行いで逮捕され、イル・マットもサーカス団から追放された。
そして、ジェルソミーナは釈放されたザンパノを迎え、2人だけで大道芸をする日々をすごした。しかし後日、ザンパノは故障した自動車を直す綱渡り芸人を見かけ、綱渡り芸人イル・マットを殺してしまう。
なきがらのそばから離れようとしないジェルソミーナは、綱渡り芸人イル・マットの死に放心状態となった。ザンパノは、役に立たなくなったジェルソミーナを見捨て、居眠りしている彼女を置き去りにして去ってゆく。
数年の時が流れて、
見知らぬ海辺の町に立ち寄ったザンパノは、ジェルソミーナがトランペットで演奏していた耳慣れた歌を耳にした。ジェルソミーナらしき女が、しばらくその海岸を放浪していたが、誰にも看取られることなく亡くなったという。
そのことは、ザンパノも、深い絶望的な孤独感を味わざるを得ない。
(c) Federico Fellini

解釈:身売り、大道芸人の辛い生活、芸人同士の特異な人間関係、窃盗・殺人、離別、そして死、ある意味、その時代の底辺のような世界のそれらの事象が、フェリーニのコンテだった、だろうか?
むしろ、こうした悲惨なエピソードの数々が陰惨なものにならないような、陽気な語り口や明るい楽しいトーンを展開している。
フェリーニは、その陽気なトーンを、ジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)に託していた。

プロット:
旅芸人ザンパノに、わずか金額で売り飛ばされた娘のジェルソミーナは、ザンパノの手伝いで亡くなった女の妹だった。

少し、発達障害があるのかも知れないが、ジェルソミーナは、素直で無類に明るい。
町や村への巡業を続ける二人だが、そして、素行の良くないザンパノに嫌気がさしたジェルソミーナは彼の元を離れていた。
祭礼の夜、綱渡り芸人イル・マットの華麗な演技に魅了されるジェルソミーナ。しかし、イル・マットはザンパノと因縁を持つ男だった……。
ザンパノはナイフを持って追いかける、、その行いで逮捕され、イル・マットもサーカス団から追放された。
そして、ジェルソミーナは釈放されたザンパノを迎え、2人だけで大道芸をする日々をすごした。しかし後日、ザンパノは故障した自動車を直す綱渡り芸人を見かけ、綱渡り芸人イル・マットを殺してしまう。
なきがらのそばから離れようとしないジェルソミーナは、綱渡り芸人イル・マットの死に放心状態となった。ザンパノは、役に立たなくなったジェルソミーナを見捨て、居眠りしている彼女を置き去りにして去ってゆく。
数年の時が流れて、
見知らぬ海辺の町に立ち寄ったザンパノは、ジェルソミーナがトランペットで演奏していた耳慣れた歌を耳にした。ジェルソミーナらしき女が、しばらくその海岸を放浪していたが、誰にも看取られることなく亡くなったという。
そのことは、ザンパノも、深い絶望的な孤独感を味わざるを得ない。
(c) Federico Fellini
2017年11月4日土曜日
監督アンジェイ・ワイダ作品理解のための政治的背景-ヤルタ会談 (Yalta Conference)(覚書メモ)
監督アンジェイ・ワイダ作品理解のための政治的背景
ヤルタ会談 (Yalta Conference)1945年2月4日 – 1945年2月11日
概要:
第二次大戦末期の1945年二月、クリミア半島のヤルタで開催された、ルーズベルト・チャーチル・スターリンによる首脳会談。
ドイツの戦後処理、国際連合設立などについて協定した。
連合国の協調が最高点に達したのはこのときだといわれ,戦後国際秩序の形成にとって重要な意味をもったさまざまな取決めが行われた(ヤルタ協定)。
戦後世界機構に関しては,大国の拒否権,国際連合設立会議(サンフランシスコ会議)を4月25日から開催すること,その招請国の範囲,などで3国の一致がえられた。
このヤルタ会談でドイツ降伏後〈2月又は3月を経て〉対日参戦することを米英両国に約束し,4月5日有効期限(1946年4月24日)以後の中立条約の不延長を通告してきた。
日本はソビエトの斡旋による和平工作を行ったが失敗し,ソビエトは8月8日対日参戦を行い,ここに日ソ中立条約は失効した。
それは、ポーランド等、東欧に於いても同様な事象が発生されたといわれる。
そして、このヤルタ会談によって、第二次世界大戦後の世界政治のあり方=国際連合の設置と米ソ二大陣営の対立という、ヤルタ体制ともいわれる戦後体制を作り上げた。
ここから始まる米ソを軸とした東西冷戦構造は、1989年のアメリカのブッシュ大統領(父)とソ連のゴルバチョフのマルタ会談(註*2)まで継続することとなる。
内容:
ヤルタ会談で合意された内容は、1945年2月、ヤルタ協定として発表さらた。その主な決定事項は次の通り。
国際連合の設立:45年4月25日にサンフランシスコで国際会議を開催し憲章を決めること、安全保障理事会で大国の拒否権を認めること。(註*1)
ドイツの戦後処理問題:ドイツの無条件降伏の確認、その戦後処理では米・英・ソ・仏の4ヶ国で分割管理すること、2年以内にその戦力排除と賠償取立てを決定すること、戦争責任者を処罰すること。 → ドイツ4カ国分割占領
東欧諸国問題:ポーランドの臨時政府を民主的基盤のうえに改造し、すみややかに自由選挙を行うこと、ドイツから解放された諸国に主権と自治を回復させ、民主的な政府を樹立させること。
ソ連の対日参戦問題:ソ連はドイツの降伏後3ヶ月以内に対日参戦すること、その条件は南樺太及び千島列島のソ連帰属(→北方領土問題)、旅順租借権のソ連による回復、大連に関するソ連の優越的地位、南満州および東支鉄道経営へのソ連の参加権、外蒙の現状維持など。この第4項は、秘密条項であった。 → 日本の無条件降伏
この協定によって、米ソ2大国による世界支配という大戦後の「ヤルタ体制」が形成されたという大きな意義をもつといわれる。
ヤルタ会談 (Yalta Conference)1945年2月4日 – 1945年2月11日
概要:
第二次大戦末期の1945年二月、クリミア半島のヤルタで開催された、ルーズベルト・チャーチル・スターリンによる首脳会談。
ドイツの戦後処理、国際連合設立などについて協定した。
連合国の協調が最高点に達したのはこのときだといわれ,戦後国際秩序の形成にとって重要な意味をもったさまざまな取決めが行われた(ヤルタ協定)。
戦後世界機構に関しては,大国の拒否権,国際連合設立会議(サンフランシスコ会議)を4月25日から開催すること,その招請国の範囲,などで3国の一致がえられた。
このヤルタ会談でドイツ降伏後〈2月又は3月を経て〉対日参戦することを米英両国に約束し,4月5日有効期限(1946年4月24日)以後の中立条約の不延長を通告してきた。
日本はソビエトの斡旋による和平工作を行ったが失敗し,ソビエトは8月8日対日参戦を行い,ここに日ソ中立条約は失効した。
それは、ポーランド等、東欧に於いても同様な事象が発生されたといわれる。
そして、このヤルタ会談によって、第二次世界大戦後の世界政治のあり方=国際連合の設置と米ソ二大陣営の対立という、ヤルタ体制ともいわれる戦後体制を作り上げた。
ここから始まる米ソを軸とした東西冷戦構造は、1989年のアメリカのブッシュ大統領(父)とソ連のゴルバチョフのマルタ会談(註*2)まで継続することとなる。
内容:
ヤルタ会談で合意された内容は、1945年2月、ヤルタ協定として発表さらた。その主な決定事項は次の通り。
国際連合の設立:45年4月25日にサンフランシスコで国際会議を開催し憲章を決めること、安全保障理事会で大国の拒否権を認めること。(註*1)
ドイツの戦後処理問題:ドイツの無条件降伏の確認、その戦後処理では米・英・ソ・仏の4ヶ国で分割管理すること、2年以内にその戦力排除と賠償取立てを決定すること、戦争責任者を処罰すること。 → ドイツ4カ国分割占領
東欧諸国問題:ポーランドの臨時政府を民主的基盤のうえに改造し、すみややかに自由選挙を行うこと、ドイツから解放された諸国に主権と自治を回復させ、民主的な政府を樹立させること。
ソ連の対日参戦問題:ソ連はドイツの降伏後3ヶ月以内に対日参戦すること、その条件は南樺太及び千島列島のソ連帰属(→北方領土問題)、旅順租借権のソ連による回復、大連に関するソ連の優越的地位、南満州および東支鉄道経営へのソ連の参加権、外蒙の現状維持など。この第4項は、秘密条項であった。 → 日本の無条件降伏
この協定によって、米ソ2大国による世界支配という大戦後の「ヤルタ体制」が形成されたという大きな意義をもつといわれる。
(*1)1989年 12月2~3日に地中海のマルタ島で行われた米ソ首脳会談で,第2次世界大戦後 40余年にわたった冷戦の終りを事実上告げた会談。東欧諸国の共産党政権が相次いで倒れ,会談直前にはついにベルリンの壁も崩壊するという事態のなかで開催された。アメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ書記長は,米ソ首脳として史上初めて共同記者会見にのぞみ,新しい平和の時代の到来を表明した。しかし,急速な事態の流れを両超大国がコントロールしようとしたという意味合いもある。

(*2)ソ連は、拒否権問題でアメリカに全面的に妥協した見返りとして、国際連合にウクライナとベラルーシ(当時は白ロシア)を加盟させることを要求した。この2国はソヴィエト社会主義共和国連邦に属しており主権国家としての条件は十分ではなかったが、イギリスもイギリス連邦自治領インドを加盟させるため同調し、ルーズヴェルトも妥協した。
2017年10月15日日曜日
「灰とダイヤモンド」解釈 / POPIOL I DIAMENT(ASHES AND DIAMONDS)-Andrzej Wajda
「灰とダイヤモンド」解釈 原題:POPIOL I DIAMENT(ASHES AND DIAMONDS)-Andrzej Wajda
監督:アンジェイ・ワイダ(1957年-ポーランド)
1)「ワルシャワ蜂起(ほうき)」から、映画の時代背景を考える。
ワルシャワ蜂起は、第二次世界大戦後期、ナチス・ドイツ占領下のポーランドの首都ワルシャワで起こった武装蜂起である。ワルシャワの街は、ほぼ破壊され、レジスタンス(抵抗)した15-25万人程もの市民が虐殺されたともいわれる。
その後、ポーランドを占領していたナチス・ドイツが連合軍に降伏し、ポーランドは自由へと解放される。
しかし、
次には、スターリン体制下のソビエト連邦共産党の侵略により、ソビエト連邦共産党体制下に置かれた。
スターリン体制下のソビエト連邦共産党の政治介入を許した東欧諸国で、唯一、ポーランドには、その社会主義(ポーランド共産党)から、自由主義政府を願うグループが存在していた。
2)撮影時の時代背景と映像理論での解釈
「灰とダイヤモンド」が制作された1950年代前半は、ソビエト連邦共産党支配下にあるスターリン体制下であり、出版物や映像表現に厳しい検閲のあるポーランドであるということだ。
その検閲の通過は、視点を変えれば、主人公はだれだ、ということだ。
マチェク、シチューカのそれに対して、この映画の評価は変わる。
シチューカは、新生ポーランドにソビエトの協力を得たいとした。
マチェクは、ポーランド共産党員の暗殺、そして、その後の改革により、自由なポーランド体制への方向性の一端であろう。
3)「灰とダイヤモンド」ストーリーとその周辺
この映画は、ポーランド地方都市での1945年5月の4日間の出来事を描いている。
マチェク(ズビグニェフ・チブルスキー)は、ワルシャワ蜂起(ほうき)以降、
祖国ポーランドの自主独立を目指し、共産党による新政府に抵抗する組織のテロ実行員として、共産党指導者であるシチューカの暗殺という任務を遂行する24歳の青年である。
シチューカの乗用車を襲撃した筈のマチェクらであったが、戦勝祝賀会が行われているホテルのロビーでシチューカを発見し、暗殺が失敗であったことを知る。
そして、
マチェクは、ホテルのバーのカウンターで働くクリスチーナ(エバ・クジジェフスカ)と出会い、二人は瞬時の恋に落ちる。
マチェク「恋はしないの?」
クリスチーナ「したくないわ」
マチェク「何故そう決めてるの?」
クリスチーナ「毎日をこれ以上難しくしたくないの……」
どちらもがナチス占領下に家族を失った孤独な身であることがほのめかされる。
どちらもがナチス占領下に家族を失った孤独な身であることがほのめかされる。
クリスチーナ「ねえ、あなたはどうしていつも黒眼鏡をかけてるの?」
マチェク「記念さ。祖国ポーランドへの大いなる、そして不幸な愛を記念してね。つまらんことさ、気にするな。まあ、本当のことを言えば、蜂起の時にあまりに長く下水道の汚水に浸かり過ぎていたので……」
街を彷徨う二人は、雨宿りの為に駆け込んだ教会の古い墓碑名に出会う。
若い二人にとっても、明日を暗示する詩であろう。
「持てるものは失わるべきさだめにあるを
残るはただ灰と嵐のごと深淵に落ちゆく昏迷のみなるを
永遠の勝利の暁に灰の底深く
燦然たるダイヤモンドの残らんことを……」
(19世紀のポーランドの詩人ノルビッドの弔詩)
そして、
夜闇に上がる戦勝祝賀の花火を背に、シチューカに弾丸を撃ち込むマチェク。
マチェクに抱きつくように息絶えるシチューカ。
その時点は、シチューカの1人息子も白色テロ組織の一員として逮捕され銃殺刑が決まった時点にあった。
クリスチーナに別れを告げ、仲間達と旅立とうとするマチェクであったが、
その後、ポーランド警備兵から、不意にマチェクは、弾丸を浴び、路傍のゴミ捨て場で、もがき苦しみ・・・・・・
ラストシーン。
ここにあるのは、イデオロギーや国家に翻弄され続けた1人青年の青春と生命、そして苦悩する社会である。
(註)マチェクを演じたチブルスキーのその後
ポーランドのある世代の伝説を具現化した男、マチェクを演じたチブルスキーは、1967年、40歳の若さで早逝。汽車に飛び乗ろうとした末の轢死(れきし)であった。
チブルスキーの死を知ったワイダのコメント
「チブルスキーは、特定の世代、すなわち私達の属す世代の凝縮だ。彼が死んでから、それが増々はっきりとしてきた。彼は、灰とダイヤモンドの中で、その歴史という強迫観念に取り憑かれた青年を、最も完全に体現してみせた」
2017年9月24日日曜日
彼岸の頃
雑司ヶ谷霊園を散策していると、
花を抱える異様なドレスの女性が現れた、
その背後には、老婆が、桶と柄杓を持ってゆっくり歩いて来た。
すれ違えない道なので会釈した。
二人とも、ぎこちない歩行で、墓参って大変だ。
振り返ると、もう、その姿は、どこにもない。
二人の来た道は、どこまでも、香水の漂う、
だから、確かだろう。
彼岸の頃
花を抱える異様なドレスの女性が現れた、
その背後には、老婆が、桶と柄杓を持ってゆっくり歩いて来た。
すれ違えない道なので会釈した。
二人とも、ぎこちない歩行で、墓参って大変だ。
振り返ると、もう、その姿は、どこにもない。
二人の来た道は、どこまでも、香水の漂う、
だから、確かだろう。
彼岸の頃
登録:
投稿 (Atom)









