ART SCENE - ASANO CHIAKI
2025年9月15日月曜日
アンドリュー・ワイエス(Andrew Wyeth)
アンドリュー・ワイエス(Andrew Wyeth, 1917-2009)は、アメリカン・リアリズムを代表する画家として知られています。しかし、彼の作品は単に現実を写し取るだけでなく、「モノが存在する」という本質的な存在感を表現しています。この精神性は、日本の絵画における「見えないもの」を表現する世界観とも共通しています。
ワイエスは生涯をアメリカ東部で過ごし、ペンシルベニア州チャッズフォードの田園地帯や、メイン州クッシングの避暑地で作品を描き続けました。彼はこの地の自然と共存しながら、恵まれない人々を公平な視点で描きました。彼の作品には、障害を持つ女性、人種差別が激しかった時代の黒人や社会的弱者とされる人々がしばしば登場します。生涯アメリカから出なかった彼は、作品を通して「移民の国アメリカとは何か」という問いを投げかけたと、後世に語り継がれています。
孤立から生まれた視点
ワイエスの独特な視点は、彼の幼少期に形成されたと考えられています。彼は幼い頃から身体的・精神的に恵まれた状況ではなく、義務教育をほとんど受けられず、家庭教師や父から必要なことを学びました。こうした孤立感は、彼の芸術に大きな影響を与えたことでしょう。また、第二次世界大戦で入隊を志願したものの却下された経験も、彼の内面に深く刻まれました。
父の死と転機
ワイエスにとって、父であり著名な挿絵画家であったN.C.ワイエスの影響は計り知れませんでした。しかし、1945年の父の踏切での自動車事故死が、彼の創作活動に大きな転機をもたらします。この悲劇の後、彼はより内省的で深みのある作品を描くようになりました。
「クリスティーナの世界」の誕生
1940年、ワイエスは妻の紹介で、クッシングの別荘近くに住んでいたオルソン家の人々を描き始めました。この家はスウェーデンからの移民であるクリスティーナとアルヴァロの姉弟が暮らしていました。
ワイエスの代表作として知られる**『クリスティーナの世界』**(1948年)は、一見するとただ女性が草原に座っているだけのようですが、実はポリオ(急性灰白髄炎)で足に障害を持つクリスティーナが、腕の力で這いながら自宅へ戻ろうとしている姿を描いています。この絵は、彼女の困難な状況と、それでもなお生きようとする圧倒的な生命力を表現しており、多くの人々の心を打ちました。
ワイエスはクリスティーナをモデルに、他にも**『彼女の小屋』や『クリスティーナ・オルソン』**といった作品を描いています。これらの作品を通して、彼は彼女の強さと人間性を深く探求しました。
ワイエスの公平な視点と、クリスティーナの生命力は、今もなお多くの人々に感動を与え、特に障害を持つ人々にとって心の支えとなっています。芸術とは、このように間接的であっても、人々の心に寄り添い、生きる力や希望を与えるものなのかもしれません。
2019年7月17日水曜日
ジョナス・メカスの残したもの(Jonas Mekas 1922 - 2019)
ジョナス・メカスの残したもの(Jonas Mekas 1922 - 2019)
”楽園の思想”
「昔も今も、社会の暗い部分に目を向けて
批判したり、抗議しようとする芸術家はたくさんいます。
私はそれをやめることにしました。
「楽園の瞬間」だけを撮ることにしたのです。
美しい瞬間、感動を与えてくれる場面ですね。
それは庭に咲く花のように、人の心を動かすでしょう」
ジョナス・メカス
ジョナス・メカス
それも、1つ方法論だろう。
表象する者は、その活動を止めてはならない。
というよりも、表象(表現)を止める事ができない人たちなのだ。
その表現方法は、多様化している。
それは、メディアのシフトというより、個人の意思を反映できる手段が増えたという事だろう。
その1つに、映像も挙げられる。
ジョナス・メカス の日記映画(diary film)をみると、ボレックスでの16mmFilm映像から、Videoそして、クラウドでのコメント等々、とシフトしている。
この流れにしても、非商業映画の価値を伝え続けた映画監督、ジョナス・メカスの存在は大きいといえるだろう。
(註)非商業映画の価値を伝え続けた映画監督、ジョナス・メカス
商業映画時代、1人でおこなった日記映画。ウォーホルも導いたといわれる
ジョナス・メカスは、インディペンデント映画の父と呼ばれる。
埋もれる芸術も多々あるというより、クラウド以前では、埋もれる事が必然だっただろう。
特に、前例のないジャンルであれば、誰かの拾い上げがなければ、人の目に触れる機会はない。
そして、アンディ・ウォーホルが実験映画監督として知られることになったのもEmpireに価値を見出す人間いたからだ。それは、ただ、エンパイヤステートを8時間という長尺での実験映像だった。
そして、アンディ・ウォーホルが実験映画監督として知られることになったのもEmpireに価値を見出す人間いたからだ。それは、ただ、エンパイヤステートを8時間という長尺での実験映像だった。
1960-70年代は、商業映画が中心であった、記録映画や、テレビの番組制作もフィルムを用いられることもあったが、個人が撮る日記映画は異端であった。8mmならまだしも、16mmでは、映写の手段や方法も限られた。しかし、その異端的なセオリーが、後のインディペンデント映画エリアというカルチャーになった。
それは、非商業映画の価値を伝え続けた映画監督、ジョナス・メカスの存在があったからだろう。
2019年5月12日日曜日
成功というイメージ- 幸福度を示す指標ではない
成功というイメージ
まず、成功とはなんだろう。
それは、その人の幸福度を示す指標ではないだろう。
「いらない職業はない」と言われる。
それは、公序良俗を鑑みてもそうだろう。
現在、情報のグローバル化を得て、急激な職業域のシフトは日常だろう。
今の児童が、社会に出る時は、現在は存在していない職業に就くということだ。ただ、それは、21世紀以前は、長いスパンで発生していた。
それは、公序良俗を鑑みてもそうだろう。
現在、情報のグローバル化を得て、急激な職業域のシフトは日常だろう。
今の児童が、社会に出る時は、現在は存在していない職業に就くということだ。ただ、それは、21世紀以前は、長いスパンで発生していた。
今、従来のスキルアップ指向からスキルチェンジ指向へ、急速に、時代が求める人材は常に変わっていくということだ。
しかしだ、いつの時代でも、老後、生活の苦難をしいられる人達もあるだろう、ただ、それは、決して、努力の足りなかった老人たちでは無いという事だ。
それは、努力が向いられなかった人たちもあるだろうし、
また、「ただ、単に生きていた」言う人達もあるだろう。
それらの人々、全ては、社会を構成してきた構成員だ。
成功ということ、それは、個々の構成員があって、はじめて、発生する。
それらは、次のジャネレーションへ、僅かな時間域でループして行く。
幸福度というサンプリングではなく、社会構成員として、その人々は事象に刻み込まれた大切な存在だ。
2018年8月31日金曜日
江戸時代末期のアイヌの女性
江戸時代末期の北海道のアイヌの女性。
西洋人的な顔立ちだ。
それは、文化はいつも、混沌と混在化して来たからだろう。アイヌ人がいつどこからきてどんな隣人と混血を重ねたか良くわかっていない。
曖昧化されているともいわれる。
日本語文字の使用を禁止されていた。そして、畑を耕して穀物を育てることも禁止されていた。
アイヌの発生から、混在されたといえども、アイヌ人には蒙古班は半分以上の人に出なかったといわれる。
西洋人的な顔立ちだ。
それは、文化はいつも、混沌と混在化して来たからだろう。アイヌ人がいつどこからきてどんな隣人と混血を重ねたか良くわかっていない。
曖昧化されているともいわれる。
日本語文字の使用を禁止されていた。そして、畑を耕して穀物を育てることも禁止されていた。
アイヌの発生から、混在されたといえども、アイヌ人には蒙古班は半分以上の人に出なかったといわれる。
Kunyu Wanguo Quantu(クヌユ・ワンゴ・クォンタウ)-「世界の無数の国の地図」
それは、イエズス会の地図作成(Kunyu Wanguo Quantu 1602年)は、地理的構成の視覚的イメージと共に、創造主の意義として表現した。
江戸幕府が、樹立されたのは1603年という学説から、鑑みても、日本に於けるそのイメージ地図の影響は、伊能忠敬(1745-1818)の日本とその周辺の地図にも、過大な影響を与えているだろう。
このように、時系列に見ても、事象はいつも、混沌と混在化している。
そして、アイヌ人々の位置付けは、
明治になって、それ以前の松前藩の迫害以上に、
その北海道や樺太、千島列島全域は、開拓という名の侵略でアイヌ民族は少数派になってしまう。
しかし、その辺りには、多様な解釈もあるようだ。
その1つが、縄文人以降に、日本列島に、アイヌ系の人々は蒙古の辺りからにやっ来たとも言われる学説もある。
2008年6月、「アイヌの人々を先住民族として認めること」を政府に求める決議が、衆参両院本会議で全会一致で採択された。
それは、前年の国連総会で先住民族の権利宣言が採択されたことも大きな要因だろう。
ただ、その要因ともなった国連大学のアプローチについても、また、解釈は実に多様だ。
先日、可決されたアイヌ新法(2019.4)のもとに、純粋のアイヌの方々はいないともいわれる。
どうやら、今でも、利権の中に、アイヌの血をひいた人々は翻弄されているようだ。
2018年8月16日木曜日
「戦争への歩みから何を学ぶか」とはなんだ
昨日 8/15は、終戦記念日だ。
ニュージーランド製の古い真空管ラジオで、放送を聞いていて気がついた。
終戦の特集番組のようだ。
皇族方の学ばれる学習院大学の井上寿一学長がゲスト出演のようだ。
そして、内容は、
「日本が戦争へと至る歩みから得るべき教訓を、改めて考えます。」
「戦争への歩みから何を学ぶか」というテーマだ。
なんてことを言っているんだろう。
最後に
「みなさんは、先の戦争について、どう思いますか?
私たちは、戦争からどんな教訓を学んでいくべきでしょうか?
みなさんからのご意見をお待ちしています。」
この公共放送局の捏造された虚像の情報から、戦地に赴き、敗戦後、この公共放送局は、その謝罪さえもないのだ。
誰しもが、だ、戦争をしたい訳がないだろう。
庶民は、そういう教育を受けて、無理やり理不尽な想いのもとに戦争をさせられたのだ。
「わたしは、平和主義だ、戦争には、行きたくない」と言える自由があっただろうか?
憲兵に、そんなことを言えるはずもないだろう。
異論反論もあろうとも、敵地に赴かざるを得なかった。
昭和20年3月10日には東京大空襲、そして、この後、3月26日から、あまりにも悲惨な沖縄戦と本土の空襲が続けられた。この東京大空襲の時点で勝てるはずもなかった戦争は、尚も続けられた。
そして、広島、長崎に、原爆が投下とされて、8/15日に、終戦となった。
何とも無残で大きな犠牲だ。
国民は、だれも、戦争をしたかったはずもないだろう。
今になって、どういう解釈だろう。
そして、千鳥ヶ淵の戦没者慰霊祭、靖国神社の参拝さえも、反論する人たちがいる。
戦死者の経緯があって、今がある。
この公共放送局は、首相の靖国神社の参拝を批判するかのようだった。
確かに、A級戦犯も祀られている、しかしだ、一般の多くの罪もない人たちが大半だろう。
とにかく、そういう、あまりに理不尽な戦争という時代があって、今がある。
その経緯と犠牲をを忘れてはないないことは確かだろう。
民主主義、そして、平和を大切にしたい。
2018年8月8日水曜日
米写真家の被爆地記録 - ジョー・オダネル (Joe O'Donnell)
米写真家の被爆地記録 - ジョー・オダネル (Joe O'Donnell)
8月6日、 8月9日、 広島、そして、長崎に原爆投下された日だ。
この時のことを、今、小学校、中高と、次世代に語る継ぐ、伝承の継続という、取り組みが行われているという。
重要にして必要な行為だ。
そして、イメージ(写真や映像)とう手段で、より具体的に継承することも大切だろう。
(c)ジョー・オダネル (Joe O'Donnell) 1945
2018年6月24日日曜日
フリーダカーロ、そこにあるのは希望を失わずに生き抜いた1人の女性
フリーダカーロ、そこにあるのは希望を失わずに生き抜いた1人の女性

フリーダカーロ(Magdalena Carmen Frida Kahlo y Calderón、1907 - 1954)
近代メキシコを代表する画家であり、民族芸術にも重きを置いた。
6歳の時にポリオのため右足が不自由となった。
リハビリを兼ねて父親はフリーダを良くハイキングに連れて行き、水彩画やカメラの手ほどきをフリーダにおこなった。ドイツ人上級実業学校を卒業するとメキシコの最高教育機関とされる女性として国立予科高等学校に入学した。
彼女は、さらに17歳でバスの大事故で瀕死の重体に陥ったが九死に一生を得る。入院中に独学で絵を学び、その作品は著名な壁画家で後に夫となるディエゴ・リベラに絶賛を受けた。
後遺症に苦しみながらもフリーダはメキシコ、アメリカにおいて絵画・壁画を制作する。
また、アンドレ・ブルトンの称賛のもとパリで個展も開き、ヨーロッパにおいてもシュルレアリズムの作家としての評価を得た。
フリーダ・カーロは生涯にわたって200点を越える作品を世に残しており、その大半が自画像であった。
自身の事故の体験に基づいて描かれたもの等、フリーダは自分の身の上に起きたことや自分自身をひたすらに描くことを身上とし、様々な作品を生み出した。
夫であり、画家でもあったディエゴ・リベラは「彼女は女性特有の、あるいは女性に普遍的なテーマを、仮借のない率直さと冷徹な厳しさをもって描いた、美術史上最初の女性である」と評している。
波乱万丈のヒロインとしてのフリーダではない、痛みと戦いながらも希望を失わずに生き抜いた1人の女性の日常を捉えたい。

フリーダカーロ(Magdalena Carmen Frida Kahlo y Calderón、1907 - 1954)
近代メキシコを代表する画家であり、民族芸術にも重きを置いた。
6歳の時にポリオのため右足が不自由となった。
リハビリを兼ねて父親はフリーダを良くハイキングに連れて行き、水彩画やカメラの手ほどきをフリーダにおこなった。ドイツ人上級実業学校を卒業するとメキシコの最高教育機関とされる女性として国立予科高等学校に入学した。
彼女は、さらに17歳でバスの大事故で瀕死の重体に陥ったが九死に一生を得る。入院中に独学で絵を学び、その作品は著名な壁画家で後に夫となるディエゴ・リベラに絶賛を受けた。
後遺症に苦しみながらもフリーダはメキシコ、アメリカにおいて絵画・壁画を制作する。
また、アンドレ・ブルトンの称賛のもとパリで個展も開き、ヨーロッパにおいてもシュルレアリズムの作家としての評価を得た。
フリーダ・カーロは生涯にわたって200点を越える作品を世に残しており、その大半が自画像であった。
自身の事故の体験に基づいて描かれたもの等、フリーダは自分の身の上に起きたことや自分自身をひたすらに描くことを身上とし、様々な作品を生み出した。
夫であり、画家でもあったディエゴ・リベラは「彼女は女性特有の、あるいは女性に普遍的なテーマを、仮借のない率直さと冷徹な厳しさをもって描いた、美術史上最初の女性である」と評している。
波乱万丈のヒロインとしてのフリーダではない、痛みと戦いながらも希望を失わずに生き抜いた1人の女性の日常を捉えたい。
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