2018年8月31日金曜日

江戸時代末期のアイヌの女性


江戸時代末期の北海道のアイヌの女性。
西洋人的な顔立ちだ。
それは、文化はいつも、混沌と混在化して来たからだろう。アイヌ人がいつどこからきてどんな隣人と混血を重ねたか良くわかっていない。
曖昧化されているともいわれる。
日本語文字の使用を禁止されていた。そして、畑を耕して穀物を育てることも禁止されていた。
アイヌの発生から、混在されたといえども、アイヌ人には蒙古班は半分以上の人に出なかったといわれる。
 


Kunyu Wanguo Quantu(クヌユ・ワンゴ・クォンタウ)-「世界の無数の国の地図」
それは、イエズス会の地図作成(Kunyu Wanguo Quantu 1602年)は、地理的構成の視覚的イメージと共に、創造主の意義として表現した。
江戸幕府が、樹立されたのは1603年という学説から、鑑みても、日本に於けるそのイメージ地図の影響は、伊能忠敬(1745-1818)の日本とその周辺の地図にも、過大な影響を与えているだろう。
このように、時系列に見ても、事象はいつも、混沌と混在化している。


そして、アイヌ人々の位置付けは、
明治になって、それ以前の松前藩の迫害以上に、
その北海道や樺太、千島列島全域は、開拓という名の侵略でアイヌ民族は少数派になってしまう。
しかし、その辺りには、多様な解釈もあるようだ。
その1つが、縄文人以降に、日本列島に、アイヌ系の人々は蒙古の辺りからにやっ来たとも言われる学説もある。

2008年6月、「アイヌの人々を先住民族として認めること」を政府に求める決議が、衆参両院本会議で全会一致で採択された。
それは、前年の国連総会で先住民族の権利宣言が採択されたことも大きな要因だろう。
ただ、その要因ともなった国連大学のアプローチについても、また、解釈は実に多様だ。
先日、可決されたアイヌ新法(2019.4)のもとに、純粋のアイヌの方々はいないともいわれる。
どうやら、今でも、利権の中に、アイヌの血をひいた人々は翻弄されているようだ。

2018年8月16日木曜日

「戦争への歩みから何を学ぶか」とはなんだ


昨日 8/15は、終戦記念日だ。

ニュージーランド製の古い真空管ラジオで、放送を聞いていて気がついた。
終戦の特集番組のようだ。
皇族方の学ばれる学習院大学の井上寿一学長がゲスト出演のようだ。

そして、内容は、
「日本が戦争へと至る歩みから得るべき教訓を、改めて考えます。」
「戦争への歩みから何を学ぶか」というテーマだ。
なんてことを言っているんだろう。
最後に
「みなさんは、先の戦争について、どう思いますか?
私たちは、戦争からどんな教訓を学んでいくべきでしょうか?
みなさんからのご意見をお待ちしています。」
この公共放送局の捏造された虚像の情報から、戦地に赴き、敗戦後、この公共放送局は、その謝罪さえもないのだ。

誰しもが、だ、戦争をしたい訳がないだろう。

庶民は、そういう教育を受けて、無理やり理不尽な想いのもとに戦争をさせられたのだ。
「わたしは、平和主義だ、戦争には、行きたくない」と言える自由があっただろうか?
憲兵に、そんなことを言えるはずもないだろう。
異論反論もあろうとも、敵地に赴かざるを得なかった。

昭和20年3月10日には東京大空襲、そして、この後、3月26日から、あまりにも悲惨な沖縄戦と本土の空襲が続けられた。この東京大空襲の時点で勝てるはずもなかった戦争は、尚も続けられた。
そして、広島、長崎に、原爆が投下とされて、8/15日に、終戦となった。
何とも無残で大きな犠牲だ。
国民は、だれも、戦争をしたかったはずもないだろう。
今になって、どういう解釈だろう。

そして、千鳥ヶ淵の戦没者慰霊祭、靖国神社の参拝さえも、反論する人たちがいる。
戦死者の経緯があって、今がある。
この公共放送局は、首相の靖国神社の参拝を批判するかのようだった。
確かに、A級戦犯も祀られている、しかしだ、一般の多くの罪もない人たちが大半だろう。


とにかく、そういう、あまりに理不尽な戦争という時代があって、今がある。
その経緯と犠牲をを忘れてはないないことは確かだろう。
民主主義、そして、平和を大切にしたい。


2018年8月8日水曜日

米写真家の被爆地記録 - ジョー・オダネル (Joe O'Donnell)

米写真家の被爆地記録  - ジョー・オダネル (Joe O'Donnell)

8月6日、 8月9日、 広島、そして、長崎に原爆投下された日だ。
この時のことを、今、小学校、中高と、次世代に語る継ぐ、伝承の継続という、取り組みが行われているという。
重要にして必要な行為だ。

そして、イメージ(写真や映像)とう手段で、より具体的に継承することも大切だろう。
(c)ジョー・オダネル (Joe O'Donnell) 1945






2018年6月24日日曜日

フリーダカーロ、そこにあるのは希望を失わずに生き抜いた1人の女性

フリーダカーロ、そこにあるのは希望を失わずに生き抜いた1人の女性
フリーダカーロ

フリーダカーロ(Magdalena Carmen Frida Kahlo y Calderón、1907 - 1954)

近代メキシコを代表する画家であり、民族芸術にも重きを置いた。
6歳の時にポリオのため右足が不自由となった。
リハビリを兼ねて父親はフリーダを良くハイキングに連れて行き、水彩画やカメラの手ほどきをフリーダにおこなった。ドイツ人上級実業学校を卒業するとメキシコの最高教育機関とされる女性として国立予科高等学校に入学した。

彼女は、さらに17歳でバスの大事故で瀕死の重体に陥ったが九死に一生を得る。入院中に独学で絵を学び、その作品は著名な壁画家で後に夫となるディエゴ・リベラに絶賛を受けた。
 
後遺症に苦しみながらもフリーダはメキシコ、アメリカにおいて絵画・壁画を制作する。
また、アンドレ・ブルトンの称賛のもとパリで個展も開き、ヨーロッパにおいてもシュルレアリズムの作家としての評価を得た。

フリーダ・カーロは生涯にわたって200点を越える作品を世に残しており、その大半が自画像であった。
自身の事故の体験に基づいて描かれたもの等、フリーダは自分の身の上に起きたことや自分自身をひたすらに描くことを身上とし、様々な作品を生み出した。
夫であり、画家でもあったディエゴ・リベラは「彼女は女性特有の、あるいは女性に普遍的なテーマを、仮借のない率直さと冷徹な厳しさをもって描いた、美術史上最初の女性である」と評している。
波乱万丈のヒロインとしてのフリーダではない、痛みと戦いながらも希望を失わずに生き抜いた1人の女性の日常を捉えたい。

2018年5月13日日曜日

シーボルトの貢献と開国(視覚化された日本列島と開国)


シーボルトの貢献と開国(視覚化された日本列島と開国)

シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold,1796-1866 ドイツ人医師・博物学者)は、1823年に来日した翌年に、長崎に鳴滝塾を開設し、日本各地から集まってきた医者や学者たちに講義する等して日本の文化に貢献した。
しかし、*シーボルト事件により、江戸時代後期の1828年にが国禁である日本地図などを日本国外に持ち出そうとして発覚したといわれ、関係者が多数処刑された。その背景には、1825年には異国船打払令が出されており、外交は緊張状態にあった。

(註)*シーボルト事件
文政11年(1828年)9月、オランダ商館付の医師であるシーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死した。
樺太東岸の資料を求めていた景保にシーボルトがクルーゼンシュテルンの『世界周航記』などを贈り、シーボルトは、江戸で幕府天文方高橋景保のもとに保管されていた伊能図を見せられた。地図は禁制品扱いであったが、高橋景保はその写しをシーボルトに渡した。シーボルト事件はこの禁制の地図の写しを持ち出したことにあった。

シーボルトが1826年7月に江戸参府から出島に帰還し、1000点以上の日本名・漢字名植物標本を蒐集できた。
しかし、伊能図の写しの持ち出しもあり、江戸幕府からの追放され、シーボルトは、1830年、オランダに帰着する。
シーボルトの人間性は、そこで終わらない。
シーボルトは、江戸幕府による国外追放後に彼は全7巻の大著『日本』を公刊し、わが国のことを世界に伝えた人物である。
翌年にはオランダ領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託されている。

そして、シーボルトは安政の開国で追放が解除されたのち安政6年(1859)に再来日し、後に江戸幕府の外交顧問に就任している。
シーボルトのおかげで鎖国・*攘夷論を排して開国が出来、西洋文化が導入出来たのもシーボルトの功績が大きいといわれる。

*(註)攘夷論(じょういろん)は、日本で幕末期に広まった、外国との通商反対や外国を撃退して鎖国を通す、排外思想。


2018年4月6日金曜日

コンピュータの能力がメディアの閾を飛び越える


従来であれば、
・平面は→グラフィック・デザイナー
・動画は→映像系クリエイター(ディレクター他)
という明確な業務体制があった。
しかし、コンピュータがその能力を増すにつれ、異なるメディアの閾を飛び越えるツールとしての役割を、コンピュータは、担うようになった。

(註)20世紀-21世紀の初めに於いては、科学や芸術(技術)の発展は、極度な専門化と分業化を招いてしまった。

2018年3月10日土曜日

草枕とオフィーリア

「山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。」
このフレーズで始まる草枕は、夏目漱石の作品群のなかで旅日記のような小説だ。 

温泉宿に泊まる、画工が語る、
「世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、そのうえ図々しい、いやな奴で埋まっている。元来何しに世の中へ面をさらしているんだか、解しかねる奴さえいる」
そして、印象に残るのが、三章にある、このフレーズだろう。

「して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。」

旅の画工は、不思議な一面を持つ那美(宿屋の娘)に出会う。
「私が身を投げて浮いているところを、―苦しんでいるところじゃないんです―やすやすと往生して浮いているところを、綺麗な画にかいてください。」

「え?」

「驚いた、驚いた、驚いたでしょう」

女はすらりと立ち上がると、三歩にして尽くる部屋を出るとき、顧みてにこりと笑う。


オフィーリアは、長いあいだ憧れとも恐れともつかぬ想いで、ループし続けているイメージである。
那美が謎めいた、生と死の美を想定されるかのようなイメージと共に、オフィーリアとしての役割を突如終え、普通の女性としての顔をあらわにした時、物語はそこで終わる。


物語は、そこにループして続いていく、それは、日常ではないからだ。














Ophelia - (c)Tate Moden

2018年1月25日木曜日

プロット:東京アダージョ 「るみこのピストル」

プロット:東京アダージョ 「るみこのピストル」

東京に住んでもう長い。というより、そこから、出たことがないのだ。山手線の内側のごく狭い世界だが、、それでも、たくさんの事象を避けては通れない。もう、ずいぶんと以前のことだが、それらが、時間の変遷と共に今の自分に降りかかる。

「るみこのピストル」
ヒトは1人ではみんな寂しいのだ。それにしても、どうあぐねても、不幸を背負った時間の動きは止まらない。

その年の春の桜の散った頃、小学校の放課後、大阪から転校して来たばかりの、るみちゃんが、耳元で言った。
るみ「うちんちのおとうちゃん、まえに、警察官だったんや、うちんちに、ピストルあるんやぁ、見にこうへん。」
ちい「ピ、ピストルって、あの、、ローハイドの」
るみ「うん、そうやぁ」
ちい「行く行く、行くよぉ、で、るみちゃん家、、どこ、」
るみ「いっしょに、帰ろう」
ちい「うん、うん」

るみちゃんの家は、路面電車の駅から、少し路地を入った奥のアパートの1階だった。
日の当たらない、部屋の中は、まっくらで、だれもいない。
ちい「おかあちゃんは?」
るみ「おつとめやぁ」
ちい「とうちゃんは?」
るみ「もう、おらへんの」
ちい「じゃぁ、るみちゃんは、おかあちゃんと2人なの?」
るみ「そうや、、いつもは、こうして、帰りなはるの待っとんやぁ」(笑顔)
ちい「るみちゃん、電気つけてよぉ、暗いじゃん」
るみ「お母ちゃんが、電気代、節約やって言いはって・・」
ちい「そう・・・・・で、ピストル、、見せて」
・・・・・・・・・
深刻な、るみちゃんの顔が、だんだん、近よってきたので、あわてた。

ちい「ピストル、ないんじゃん」
るみ「6時まで、ここにおったら、見せてあげるん、あのねぇ、押し入れの”柳ごおり”にあるんや」
ちい「柳ごおり、だけでも、見せて・・・」

るみ「ねえ、ちいちゃん、わたしこのと、すきぃ」
ちい「うん」
るみ「だったら、もう、けんちゃんと遊ばんといて、、お願いやさかい・・けんちゃんの服はきたないわぁ。」
ちい「ええっ、はやくぅ、ピストル、、見せてよ、おいら、もう、帰る・・・」
るみ「いややぁ、、」
るみ「ちいちゃん、甲州屋(駅前の駄菓子屋)行かへん、、梅ジャムついたウエハース、こうたる」
ちい「うそつき、るみこ、のばか、もう、いやだぁ~~きらいや、うそつき-るみこ、なんか、大きらいやぁ、、、帰る」
・・・・・・・・・
真っ暗な部屋で、1人で泣いている、るみちゃんが、、
とても、気になって、
かわいそうになって、、
甲州屋(駄菓子屋)で、苺ジャムついたウエハースを買って、
アパートのドアの下から、バタンと、突っ込んで走って帰った。
―――――――――――――――――――――――

明くる日、小学校から、
家に帰ると、るみちゃんが、もう、1人、女の子を連れて来ていた。
堀コタツで、自分の母とお菓子を食べながら、たわいもない話しや勉強をしていたので、ビックリした。
るみ「ちいちゃん、おそかったわねぇ。」
ちい「えっ、なんじゃぁ、おかあちゃんまで・・・」
もう1人の女の子が帰った後・・・・

るみ「ちいちゃん家、カラーテレビあるんやね、とうちゃんも、姉ちゃんもおるしぃ、ええなぁ」
母「るみちゃん、おかあさん、お戻りになられるまで、毎日、、ここにいていいのよ
そしたら、少しは、ちいも、勉強するでしょうからねぇ(笑)」
るみ「ほんとうですかぁ、おばちゃん、ありがとう」
・・・・・・・・・
給食係の、るみちゃんは、いつも、ぼくには、見るからに大きいおかずをくれた、
それが、クラス会で問題なったときも、るみちゃんは、おもっきり泣くので、先生がクラス会をやめて、ドッチボールになったこともあった。
そして、毎日、小学校から、帰るとすでに家にいる・・・、
そして、卒業の最後の日、昼食後にショートケーキがでたが、自分のだけは、2つ苺が乗っていた。
あまりに、わかりやすくて、もう、クラスでみんなに、かわかわれた。
でも、でもだ、1人で、暗い部屋にいるのは、つらいことなんだと、可哀想に思えたならなかった。

その頃、、、東京の街が調整され、別々の区域になり、別々の中学になった、
あまりに、何度も、手紙が、るみちゃんから、着たので、
るみちゃんに、
カセット・テープで、自分の放送(NHK風ニュースから、洋楽、流行歌、コントまで)を入れて、郵便で送った。(10分のオープンリールで当時そういうのがあった。ただ、考えてみれば、ルミ子の家に、テープレコーダーがあるかだ・・・)

すると、すぐに、返事が来た。
「クラスのみんなに聞かせたわぁ、みんなおどろいてね・・・でね・・・そしたらね・・」
もう、会う事もないだろうと・・・思った。

「ほんと、もう、もう、いいよ。」

―――――――――――――――――――――――
しかし、後から考えてみれば、学校で聞くしかなかったのだ。
―――――――――――――――――――――――
それから、何年経っただろう。
自分が、二十歳過ぎた頃、、授業が終わって、いつものバイトに行く途中で、すれ違いざまに、何度も名前を呼ばれた。

繁華街の1つ裏通り、派手な服装の中年の女性
は、るみちゃんのお母さんだった。

るみの母「まあ、まあ、ご立派になられて、もう、大学生になりなはったんやねぇ・・」

自分は、当時のサイケドリックなカラーのヒッピー風の服装だった。
よくわかったなぁと思いつつ、せめて、もう少しアカデミックな服装でありたかったが、もう、おそい。それより、るみこの母、たくさんの人を見てきたのだろう。
あまり、服装に気を止める様子もなく、、、そういう人だった。

ちい「あっ、、ご無沙汰しております、留美子さんは、お元気ですか」
るみの母「それがやねぇ・・・・・」
るみちゃんの行方が、わからないという。

なんて、世の中、、生まれながらにして、平等じゃないんだろう。
そして、この時ばかりは、いつかは、立派な人間になろうと思ったのだが・・・

―――――――――――――――――――――――
(註)このプロットから、シナリオへの演出を行ない、それぞれの演劇・映像のスタイルに取り込んでいただければ幸いです。

2018年1月22日月曜日

クエイ兄弟の世界は、それはブリティッシュ。Quay brothers world, that is British.

Quay brothers world, that is British.
クエイ兄弟の世界は、それはブリティッシュ。

彼らはロンドンのロイヤル・アカデミーに学び、今でもロンドンに住んでいる。
カフカの文学やヤナーチェクの音楽、ヤン・シュヴァンクマイエルの映像作品など、東欧文化の色濃い影響を受けつつ、短編アニメ映画制作に傾倒した。
だが、彼らの生まれは米国ペンシルヴァニア州、フィラデルフィア郊外である。
*「母と双子」という1948年の写真は、これが彼らの幼少時の写真なのであろう。1947年生まれなので、1歳ということになる。

この写真から、1歳にして、すでに、クエイ兄弟の最初の作品と呼べるだろう。
2人の赤ん坊の無機質性と、後に彼らの作品中でパペットが行うなんらかの「労働」を、ここでは彼らの母が行っており、そして、大きく開いた地下室への入り口が、日常にない異世界を感じさせる。
これこそは、まさに、最初のブラザーズ・クエイの作品の世界だろう。



*この母親のガーデニング「労働」を見ている2人の幼児を写真「母と双子」から言えることは、前衛芸術運動を行う母親持つクレイ兄弟は、幼少期にすでに、お互いの目を通して彼らの周りに前衛的な芸術を見つめていただろう。

2018年1月20日土曜日

ヴァルター・ベンヤミン著作集III 「言語と社会」解釈

解釈「言語と社会」ヴァルター・ベンヤミン著作集IIIから、「言語一般および人間の言語 」 1916

解釈「言語一般および人間の言語 」
人間の精神面の表出は、すべて、言語の一種として把握することができる。
この把握にあたっては、至るところで新たなる問題の提起の道が開かれた。
簡単に言えば、精神面全ての伝達は、すべて言語に他ならない。
精神本質は、それが伝達可能な限りにおいてのみ、それは、言語の本質と一致する。
また、人間言語の本質は、事物に対して、命名することなのだ。
その命名することが、自己を伝達することなのだ。
それは、だれに伝えているのか?
人は、どのように自己伝達をするのか?

そこから解釈できることは、人間のみが普遍性と集中性の両面から、完全な言語を有している、ことだろう。
それは、また、*形而上学的な重要な要素を持ち合わせているだろうが、まずは、精神的本質とは、言語的本質と呼ぶことができるか?
精神的本質=言語的本質であれば、事物(表象・事象)は、その精神的本質の媒体となろう。
所謂、言語の内容等は存在しない、伝達している言語は、精神的本質を伝え、それは、伝達の可能性そのものを伝えることなのだ。

このベンヤミンの思想は、神学とマルクス主義にも由来する社会学を融合した特異性をもち、他との同一化を拒む部分もあり、現在、多様な解釈もあるだろう。

(註)*形而上学とは、感覚ないし経験を超えた世界を「真実在」とした場合、その世界の普遍的(共通)な原理について理性的な思考(感覚・知覚と異なる知的精神作用)によって認識しようとする学問、また、哲学の一分野である

2018年1月16日火曜日

アンドリュー・ワイエスの視点

アンドリュー・ワイエス(Andrew Wyeth US 1917- 2009) 
アメリカン・リアリズムの代表的画家とも言われる、だが、見なくても「モノ存在する」事も表現している。(日本画の世界に共通する)
アメリカ東部の自然と共存して、その生まれながらにして公平ではない人々を描いた。
作品には、障害を持つ女性や、より人種差別が激しい時代、黒人等、弱者と言われる人々を描かれていた。
そのシーンは、地方の町チャッズフォード、そして、メイン州クッシング(避暑地)で主に描かれた。生涯、アメリカから、出たことのなかった彼は、人々に「移民の国アメリカとは何んだろうか」と、問いかけが、テーマだったと後世語っている。

ワイエスのその視点は、幼少期から、身体的にも精神的にも良い状況になく、ほぼ義務教育も受られず、家庭教師や父から必要なことは学んだという孤立感も大きな要因だし、第二次大戦で入隊を志願したが、却下された事もあるだろう。


そのような状況下での、アンドリュー・ワイエスにとって、父である、N.C.ワイエス(挿絵画家)の影響も過大なものであった。
その転機として、、父の踏切での自動車事故死(1945)であったと言われる。

そして、
1940年 妻に紹介された、クッシング別荘の近くに住んでいたオルソン家(スウェーデンからの移民)のクリスティーナ・オルソンとアルヴァロ・オルソン姉弟をモデルに描き始めた。
代表作と言われる「クリスティーナの世界-1948」は、
ただ、女性(クリスティーナ)が草原に座っているだけのようだが、ポリオ(急性灰白髄炎)で足に障害のあるクリスティーナが、腕の力で這って自宅へ戻る様子である。
「クリスティーナの世界」、それは、誰しも、その生命力に感動せざるを得ないだろう。
ワイエスの視点(セオリー)、そしてクリスティーナの生命力は、今後も多くの、そう、障害のある方の、心の支えともなるだろう。


美術、芸術と言われるモノは、本来、間接的にせよ、そう言うものなのだ。