2018年1月25日木曜日

プロット:東京アダージョ 「るみこのピストル」

プロット:東京アダージョ 「るみこのピストル」

東京に住んでもう長い。というより、そこから、出たことがないのだ。山手線の内側のごく狭い世界だが、、それでも、たくさんの事象を避けては通れない。もう、ずいぶんと以前のことだが、それらが、時間の変遷と共に今の自分に降りかかる。

「るみこのピストル」
ヒトは1人ではみんな寂しいのだ。それにしても、どうあぐねても、不幸を背負った時間の動きは止まらない。

その年の春の桜の散った頃、小学校の放課後、大阪から転校して来たばかりの、るみちゃんが、耳元で言った。
るみ「うちんちのおとうちゃん、まえに、警察官だったんや、うちんちに、ピストルあるんやぁ、見にこうへん。」
ちい「ピ、ピストルって、あの、、ローハイドの」
るみ「うん、そうやぁ」
ちい「行く行く、行くよぉ、で、るみちゃん家、、どこ、」
るみ「いっしょに、帰ろう」
ちい「うん、うん」

るみちゃんの家は、路面電車の駅から、少し路地を入った奥のアパートの1階だった。
日の当たらない、部屋の中は、まっくらで、だれもいない。
ちい「おかあちゃんは?」
るみ「おつとめやぁ」
ちい「とうちゃんは?」
るみ「もう、おらへんの」
ちい「じゃぁ、るみちゃんは、おかあちゃんと2人なの?」
るみ「そうや、、いつもは、こうして、帰りなはるの待っとんやぁ」(笑顔)
ちい「るみちゃん、電気つけてよぉ、暗いじゃん」
るみ「お母ちゃんが、電気代、節約やって言いはって・・」
ちい「そう・・・・・で、ピストル、、見せて」
・・・・・・・・・
深刻な、るみちゃんの顔が、だんだん、近よってきたので、あわてた。

ちい「ピストル、ないんじゃん」
るみ「6時まで、ここにおったら、見せてあげるん、あのねぇ、押し入れの”柳ごおり”にあるんや」
ちい「柳ごおり、だけでも、見せて・・・」

るみ「ねえ、ちいちゃん、わたしこのと、すきぃ」
ちい「うん」
るみ「だったら、もう、けんちゃんと遊ばんといて、、お願いやさかい・・けんちゃんの服はきたないわぁ。」
ちい「ええっ、はやくぅ、ピストル、、見せてよ、おいら、もう、帰る・・・」
るみ「いややぁ、、」
るみ「ちいちゃん、甲州屋(駅前の駄菓子屋)行かへん、、梅ジャムついたウエハース、こうたる」
ちい「うそつき、るみこ、のばか、もう、いやだぁ~~きらいや、うそつき-るみこ、なんか、大きらいやぁ、、、帰る」
・・・・・・・・・
真っ暗な部屋で、1人で泣いている、るみちゃんが、、
とても、気になって、
かわいそうになって、、
甲州屋(駄菓子屋)で、苺ジャムついたウエハースを買って、
アパートのドアの下から、バタンと、突っ込んで走って帰った。
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明くる日、小学校から、
家に帰ると、るみちゃんが、もう、1人、女の子を連れて来ていた。
堀コタツで、自分の母とお菓子を食べながら、たわいもない話しや勉強をしていたので、ビックリした。
るみ「ちいちゃん、おそかったわねぇ。」
ちい「えっ、なんじゃぁ、おかあちゃんまで・・・」
もう1人の女の子が帰った後・・・・

るみ「ちいちゃん家、カラーテレビあるんやね、とうちゃんも、姉ちゃんもおるしぃ、ええなぁ」
母「るみちゃん、おかあさん、お戻りになられるまで、毎日、、ここにいていいのよ
そしたら、少しは、ちいも、勉強するでしょうからねぇ(笑)」
るみ「ほんとうですかぁ、おばちゃん、ありがとう」
・・・・・・・・・
給食係の、るみちゃんは、いつも、ぼくには、見るからに大きいおかずをくれた、
それが、クラス会で問題なったときも、るみちゃんは、おもっきり泣くので、先生がクラス会をやめて、ドッチボールになったこともあった。
そして、毎日、小学校から、帰るとすでに家にいる・・・、
そして、卒業の最後の日、昼食後にショートケーキがでたが、自分のだけは、2つ苺が乗っていた。
あまりに、わかりやすくて、もう、クラスでみんなに、かわかわれた。
でも、でもだ、1人で、暗い部屋にいるのは、つらいことなんだと、可哀想に思えたならなかった。

その頃、、、東京の街が調整され、別々の区域になり、別々の中学になった、
あまりに、何度も、手紙が、るみちゃんから、着たので、
るみちゃんに、
カセット・テープで、自分の放送(NHK風ニュースから、洋楽、流行歌、コントまで)を入れて、郵便で送った。(10分のオープンリールで当時そういうのがあった。ただ、考えてみれば、ルミ子の家に、テープレコーダーがあるかだ・・・)

すると、すぐに、返事が来た。
「クラスのみんなに聞かせたわぁ、みんなおどろいてね・・・でね・・・そしたらね・・」
もう、会う事もないだろうと・・・思った。

「ほんと、もう、もう、いいよ。」

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しかし、後から考えてみれば、学校で聞くしかなかったのだ。
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それから、何年経っただろう。
自分が、二十歳過ぎた頃、、授業が終わって、いつものバイトに行く途中で、すれ違いざまに、何度も名前を呼ばれた。

繁華街の1つ裏通り、派手な服装の中年の女性
は、るみちゃんのお母さんだった。

るみの母「まあ、まあ、ご立派になられて、もう、大学生になりなはったんやねぇ・・」

自分は、当時のサイケドリックなカラーのヒッピー風の服装だった。
よくわかったなぁと思いつつ、せめて、もう少しアカデミックな服装でありたかったが、もう、おそい。それより、るみこの母、たくさんの人を見てきたのだろう。
あまり、服装に気を止める様子もなく、、、そういう人だった。

ちい「あっ、、ご無沙汰しております、留美子さんは、お元気ですか」
るみの母「それがやねぇ・・・・・」
るみちゃんの行方が、わからないという。

なんて、世の中、、生まれながらにして、平等じゃないんだろう。
そして、この時ばかりは、いつかは、立派な人間になろうと思ったのだが・・・

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(註)このプロットから、シナリオへの演出を行ない、それぞれの演劇・映像のスタイルに取り込んでいただければ幸いです。

2018年1月22日月曜日

クエイ兄弟の世界は、それはブリティッシュ。Quay brothers world, that is British.

Quay brothers world, that is British.
クエイ兄弟の世界は、それはブリティッシュ。

彼らはロンドンのロイヤル・アカデミーに学び、今でもロンドンに住んでいる。
カフカの文学やヤナーチェクの音楽、ヤン・シュヴァンクマイエルの映像作品など、東欧文化の色濃い影響を受けつつ、短編アニメ映画制作に傾倒した。
だが、彼らの生まれは米国ペンシルヴァニア州、フィラデルフィア郊外である。
*「母と双子」という1948年の写真は、これが彼らの幼少時の写真なのであろう。1947年生まれなので、1歳ということになる。

この写真から、1歳にして、すでに、クエイ兄弟の最初の作品と呼べるだろう。
2人の赤ん坊の無機質性と、後に彼らの作品中でパペットが行うなんらかの「労働」を、ここでは彼らの母が行っており、そして、大きく開いた地下室への入り口が、日常にない異世界を感じさせる。
これこそは、まさに、最初のブラザーズ・クエイの作品の世界だろう。



*この母親のガーデニング「労働」を見ている2人の幼児を写真「母と双子」から言えることは、前衛芸術運動を行う母親持つクレイ兄弟は、幼少期にすでに、お互いの目を通して彼らの周りに前衛的な芸術を見つめていただろう。

2018年1月20日土曜日

ヴァルター・ベンヤミン著作集III 「言語と社会」解釈

解釈「言語と社会」ヴァルター・ベンヤミン著作集IIIから、「言語一般および人間の言語 」 1916

解釈「言語一般および人間の言語 」
人間の精神面の表出は、すべて、言語の一種として把握することができる。
この把握にあたっては、至るところで新たなる問題の提起の道が開かれた。
簡単に言えば、精神面全ての伝達は、すべて言語に他ならない。
精神本質は、それが伝達可能な限りにおいてのみ、それは、言語の本質と一致する。
また、人間言語の本質は、事物に対して、命名することなのだ。
その命名することが、自己を伝達することなのだ。
それは、だれに伝えているのか?
人は、どのように自己伝達をするのか?

そこから解釈できることは、人間のみが普遍性と集中性の両面から、完全な言語を有している、ことだろう。
それは、また、*形而上学的な重要な要素を持ち合わせているだろうが、まずは、精神的本質とは、言語的本質と呼ぶことができるか?
精神的本質=言語的本質であれば、事物(表象・事象)は、その精神的本質の媒体となろう。
所謂、言語の内容等は存在しない、伝達している言語は、精神的本質を伝え、それは、伝達の可能性そのものを伝えることなのだ。

このベンヤミンの思想は、神学とマルクス主義にも由来する社会学を融合した特異性をもち、他との同一化を拒む部分もあり、現在、多様な解釈もあるだろう。

(註)*形而上学とは、感覚ないし経験を超えた世界を「真実在」とした場合、その世界の普遍的(共通)な原理について理性的な思考(感覚・知覚と異なる知的精神作用)によって認識しようとする学問、また、哲学の一分野である

2018年1月16日火曜日

アンドリュー・ワイエスの視点

アンドリュー・ワイエス(Andrew Wyeth US 1917- 2009) 
アメリカン・リアリズムの代表的画家とも言われる、だが、見なくても「モノ存在する」事も表現している。(日本画の世界に共通する)
アメリカ東部の自然と共存して、その生まれながらにして公平ではない人々を描いた。
作品には、障害を持つ女性や、より人種差別が激しい時代、黒人等、弱者と言われる人々を描かれていた。
そのシーンは、地方の町チャッズフォード、そして、メイン州クッシング(避暑地)で主に描かれた。生涯、アメリカから、出たことのなかった彼は、人々に「移民の国アメリカとは何んだろうか」と、問いかけが、テーマだったと後世語っている。

ワイエスのその視点は、幼少期から、身体的にも精神的にも良い状況になく、ほぼ義務教育も受られず、家庭教師や父から必要なことは学んだという孤立感も大きな要因だし、第二次大戦で入隊を志願したが、却下された事もあるだろう。


そのような状況下での、アンドリュー・ワイエスにとって、父である、N.C.ワイエス(挿絵画家)の影響も過大なものであった。
その転機として、、父の踏切での自動車事故死(1945)であったと言われる。

そして、
1940年 妻に紹介された、クッシング別荘の近くに住んでいたオルソン家(スウェーデンからの移民)のクリスティーナ・オルソンとアルヴァロ・オルソン姉弟をモデルに描き始めた。
代表作と言われる「クリスティーナの世界-1948」は、
ただ、女性(クリスティーナ)が草原に座っているだけのようだが、ポリオ(急性灰白髄炎)で足に障害のあるクリスティーナが、腕の力で這って自宅へ戻る様子である。
「クリスティーナの世界」、それは、誰しも、その生命力に感動せざるを得ないだろう。
ワイエスの視点(セオリー)、そしてクリスティーナの生命力は、今後も多くの、そう、障害のある方の、心の支えともなるだろう。


美術、芸術と言われるモノは、本来、間接的にせよ、そう言うものなのだ。